聖書
旧約聖書 ヨナ書2章4~10節 (旧約1446頁)
新約聖書 マタイによる福音書8章1~4節(新約13頁)
説 教 「新しく生きる」 柳谷知之 牧師
◆新年を迎えて
新しい年が始まりました。主イエスの誕生によって数えられ西暦2026年を迎えました。
いつも感じさせられるのですが、2025年12月31日と2026年1月1日の間には、客観的に見れば、何一つ状況は変わっていないように思えるところがあります。しかし、人間は過ぎゆく年月に区切りを設け、過去を振り返りつつ、未来に向かって生きようとしています。農耕が中心の社会で暦は発達し、1週間、1ヶ月、1年というサイクルが生まれてきたと考えられます。種を蒔き収穫する時期を太陽、月、星などの天体の動きから見出し、農業にふさわしい時期を確定してきたのです。しかし、農業にすべての人が携わらなくなってもこのような時を刻んで生きるのは何故なのでしょう? 1年だけでなく、1日、1週間、1ヶ月という時間の区切りにおいても、わたしたちは一つの方向性をもって生きようとしているのではないでしょうか? ただ漠然と締切のない課題が与えられているわけではないと思うのです。それは人に与えられている時間に限りがあるからです。いつまでも生きている人はいないのですが、それを自分自身のこととするならば、限られた時間の中でどのように生きていくかが問われるのではないでしょうか。また、10代、20代においては、日々成長を感じつつ歩む日々があったことを思い起こしますが、その成長速度はだんだんと鈍くなり、それどころか昨日までできていたことができなくなる、ということにもなってきます。成長しなければ意味はない、となると生きている意味はなくなるかもしれません。しかし、パウロは語ります。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(Ⅱコリント4:16) 脳科学的にも120歳までは人間は成長すると言われたりもします。何かができるとかできないという視点での成長ではなく、日々新たにされることの中に、わたしたちが神と共に生きる生き方が示されています。そして、日々新たにされる、というのは、私たちにとっては、み言葉を新たな気持ちで受け止めていくことに他なりません。それは、主がなされること、語られることが、私たちにとっていつも新しい出来事になるということでもあります。
◆思い皮膚病の人を癒す主イエス
さて、本日は主イエスが山上の説教が終わって、山からおりて人々に奇跡を行う場面を聞きました。その奇跡は、重い皮膚病の人を癒したことです。主イエスが生きた当時のユダヤ社会では、ハンセン氏病と呼ばれる病は、ヘブライ語で「ツァラト」と言われる重い皮膚病と同一視され、その病にかかった人は、律法の規定に従い、汚れた者として隔離され、共同体の交わりから絶たれました(レビ13章)。そのような人と主イエスは接し、触れ、癒されたのです。そこに主イエスの新しさがあります。そして、主イエスは、決して律法をどうでもよいものと退けたのではありません。主イエスは、重い皮膚病が癒された人に対して、祭司に体をみせ、体が清くなっていることを判断してもらうこと(レビ13:49)、そして清められたことに対して、律法に従って犠牲を捧げること(レビ14章)を命じたのです。主イエスは、山上の説教において、ご自分が律法の廃棄者ではなく、律法の完成者であることを宣言されています(マタイ5:17)。主イエスにとって律法は神の言葉であり守るべきものです。その律法の中でも最も大切な戒めとして、神を全身全霊で愛すること、隣人を自分のように愛することを挙げています(マタイ22:37~39)。また、律法を全部守っているという富める青年に対して、持ち物を全部売って貧しい人に施すように命じています(マタイ19:21)。主イエスは律法を通して、神がすべての人を愛されていること、人はその愛に応えて、互いに愛するようになることを、ご自分の身をもって(十字架と復活)伝えられているのです(ヨハネ13:34)。神が無条件で私たちの罪(主イエスを十字架につけるほどの罪)をゆるされていることを思い起こすならば、互いに愛し合うことに導かれるのです。愛の律法は決してマニュアルではありません。思いもしない出来事が起こる時にも、その神の愛に立ち帰ること、それが、新しい歩みにつながっていくのです。